announcement

15th November – 26th November, 2018

In Hong Kong


To take part in Para Site Workshops for Emerging Art Professionals 2018

28th June – 26th September, 2018

In Kyoto, Shiga and Tottori, Japan

16th September, 2018

In Hiroshima, Japan

トークイベント:

キリスト教・ポーランド・EUと島国: 芸術と民主主義の複数性

話し手: 堤 拓也(キュレーター)


Christianity / Poland / EU and the island: What is Plurality of Democracy and Art

Speaker: Takuya Tsutsumi, curator


日時: 2018年9月16日(日) 14:00〜(約90分)

会場: アートギャラリーミヤウチ (〒738-0034 広島県廿日市市宮内字高通4347番地2)

入場料: 500円 /予約不要・先着順

お問い合わせ: アートギャラリーミヤウチ Tel 0829–30–8511  Email [email protected]

http://www.miyauchiaf.or.jp/


概要:

中欧 (あるいは東欧)に位置するカトリックの国ポーランド。今回は4つのトピック「地勢・宗教・政治・展示」に注目し、社会領域がどのように芸術領域に影響を与えるのかを考察します。さらにヨーロッパ全体や日本の事例とも比較しつつ、共通点や相違点を通して「芸術」と「民主主義」の複数性を確認していきます。それはつまり、西ヨーロッパからは極東に位置しており、古来より中国文明の影響を受けて発達し、太平洋側に大国がない島国における「芸術」を実践していく際の参考となるはずです。

また、今回は講義に合わせ、アートギャラリーミヤウチが所蔵しているマグダレナ・アバカノヴィッチ (1930–2017) の版画作品を6点展示いたします。ぜひご来場ください。


* The lecture dealing with Poland in terms of topography, religion, politics, and exhibition along with comparison to Europe and Japan, is going to be conducted only in Japanese. This time, along with the lecture, Magdalena Abakanowicz’s 6 printmakings collected by ART GALLERY MIYAUCHI will be exhibited. 

8th September, 2018


In Kyoto, Japan


関連トークイベントへの参加


ULTRA x ANTEROOM exhibition 2018 [Re:Traffic]

会期: 2018年8月17日(金) — 9月24日(祝・月)
会期中無休・入場無料/営業時間: 12:00~19:00
会場: ホテル アンテルーム 京都 GALLERY9.5(京都府京都市南区東九条明田町7番)

出品作家: 石黒 健一 Kenichi ISHIGURO / 市川 ヂュン Zyun ICHIKAWA / 春澤 龍平 Ryuhei HARUSAWA / 檜皮 一彦 Kazuhiko HIWA


[トークイベント]
アート OR デザイン
― ブリオー以降のデザイナー
ニコラ・ブリオーの著書「関係性の美学」以降、アートとデザインの関わりは多様な広がりを見せています。本トークは、アートの現場に関わるデザイナーとキュレーターが、あまり語られることのなかったデザインの分野から、ブリオー以降のアートとデザインの関係性に迫ります。
登壇者: 見増勇介 (デザイナー、yusuke mimasu design 代表)
堤 拓也 (キュレーター)
仲村健太郎 (デザイナー、Studio Kentaro Nakamura)
日時: 9月8日 (土) 17時30分~19時30分/予約不要・無料
会場: ホテル アンテルーム 京都 アンテルーム バー

31st August, 2018

In Nagoya, Japan


トークショー: ポーランド[とヨーロッパと日本] — 地勢・宗教・政治・展示

堤 拓也 (キュレーター) ×  新見永治 (パルルオーナー)


Poland [Europe and Japan]: Topography, Religion, Politics, and Exhibition
Speaker: Takuya Tsutsumi, curator


時間: 開場 18時30分/開始19時 (約90分間)

会場: パルル (名古屋市中区新栄2-2-19 新栄グリーンハイツ1階)

入場料: 1,000円


概要:

中欧 (あるいは東欧) に位置するカトリックの国ポーランド。今回は4つのトピックに注目し、社会がどのように芸術領域に影響を与えるのかを考察します。また、ときにヨーロッパや日本の事例も参照しつつ、アートと民主主義の複数性について思いを巡らせます。

※同会場にて東欧にまつわるアンティーク食器や雑貨も販売予定。

* The lecture dealing with Poland concerning topography, religion, politics, and exhibition along with comparison to Europe and Japan is going to be conducted only in Japanese.


同時開催:
イベントに合わせ、同会場にて東欧にまつわるアンティーク食器や雑貨を販売します。

日時: 8月31日(金) 17:00〜イベント終了時まで

Co-located event: an antique shop selling something from Eastern Europe.

27th July – 18th August, 2018

In Nagano, Japan

15th – 19th July, 2018

In Akita, Japan

May 26th, 2018

In Poznan, Poland

Title: Made in.between East:West (a part of Poznan Art Week 2018)

Venue: Galeria R20 (Franciszka Ratajczaka 20, 61-815, Poznan)
Artists: Weining Cai, Daniela D’amore, Alison Farrelly, Akis Giousmis, Nadine Kseibi, Kais Masood, Thunthon & Thonthun Monkata, Elena Nestian, Alla Prokopyshyna, Vienna Ruocco, Haruchika Seno, Yujia Shi, Xinye Zhang
Curator: Takuya Tsutsumi
Coordinators: Aniela Perszko, Szymon Dolata 

March 17th, 2018

In Poznan, Poland

UNDERSCAN: an online visual research platform, that explores the anthropological and sociological issues in spaces through the visuals and other forms of arts, has published 2nd issue: connective(ity) / collective(ity). I am taking part in the project as a member of curator. 

https://underscan.online/

December 10th, 2017

In Poznan, Poland

— 

A review of the exhibition ‘Asia Corridor Contemporary Art Exhibition’, which was taken place at Nijo Castle in Kyoto as a part of exchange project between Kyoto (Japan), Changsha (China) and Daegu (South Korea) technically to promote mutual understanding and solidarity in the region through the power of culture, has been put on a website of HAPS press.

http://haps-kyoto.com/haps-press/exhibition_review/12_2017/


Thanks to Yoshiko Teraoka.

September 8th – October 5th, 2017

In Kyoto, Japan

Title: An Introduction to Eastern Europe

    東欧へのいざない — 雑貨と文学

Venue: Kyoto Okazaki TSUTAYA Books, Kyoto, JP

    京都岡崎 蔦屋書店, 京都

September 1st – 25th, 2017

In Shiga, Tottori and Kyoto, Japan

August 28th, 2017

In Poznan, Poland

 8月中旬延べ7日間に渡り、ドクメンタ・カッセルとミュンスター・スカルプチュア・プロジェクトを観た。ポズナンからバスに乗って10時間以上かかる長旅であったが、それくらいの意味があったので簡単にまとめておきたい。


 まず始めにカッセルにおいて、現地に赴かない限り伝説化し続けるドクメンタの神話が解体された。発行される書籍や、レビュー、伝聞で肥大化した期待の割に、正直こんなものかという印象だった。それは会場の作品の質や、織り込まれた知的活動といった内容に対するものではなく、単純に想像の範囲であったというだけなのかもしれない。もちろんこの度のアテネと同時開催したドクメンタ14は意義深いものであると思っているし、展示されている作品をとってみても、バルカンを中心とした非西洋圏のアーティストを積極的に取り上げているキュレーションには脱帽する。よくこんなにもマイナーアーティストを知っているな、と。しかし同時に、この規模は果たして人間ひとりあたりに処理できる量だろうかという形式に対する素朴な疑問が生まれてくる。それが公共性を高め、裏面で権力性を誇示しているということを邪推しつつも、観れば観るほど思考停止に陥っていった。これこそが展覧会という西洋ベースのアイディアであり、もしこれに馴染めないのであれば私には初めから鑑賞や啓蒙など不向きである。黙って東アジアに帰ろう。カッセルに関しては個別の作品についても熟考できず、良い鑑賞者になれなかったのがやや残念であった。

 とはいえ、もしカッセルの会場が小規模になり、ドクメンタの原型である「ナショナル・ガーデン・ショー」に添付された程度の展覧会になれば、どうなっていたであろうか。目の前の花を愛でつつ、アートを思惑するような余裕があっただろうか。あるいは意図せず、昨今の社会問題を見つめる機会になったであろうか。そもそもこのようにドクメンタのスケール自体への違和感を感じた理由として、おそらくミュンスター・スカルプチュア・プロジェクト(以下、SP)を先に観てしまったことが考えられる。それがどういうことなのか述べたいが、しかしそのまえに、ドクメンタ14のいち会場として選ばれたアテネの感想を挟ませて頂きたい。


 アテネでのドクメンタは率直に素晴らしかった。むしろSPとの効率性を考えた上でのカッセルより、アテネ単体でも訪れるべきだったかもしれない(勘の良い人はこの地だけを訪れたのだろう)。

 ご存知のようにアテネはヨーロッパの起源であり、民主主義発祥の地であり、また同時に、EUの連帯を揺るがす程の経済危機の原因、さらに中東諸国からヨーロッパへの入口でもある。このような社会状況ゆえに「Leaning from Athens」というサブタイトルのもと、アテネはドクメンタにおける同時開催都市として選出されたと言われている。

 それはそうと、今回の二都市同時開催について、そのようなカッセル以外での実施は、元々はドクメンタの父であるArnold Bodeが早くから計画していたようだ。例えば、彼がディレクターを務めたドクメンタ4は、丁度同じ年に行われたミュンヘン・オリンピックに絡んで同地で開催するつもりだった(フィラデルフィアへの展開もあった)。さらに1977年に没する直前、彼は「カッセル・東京・北京」「カッセル・南アメリカ・アフリカ・インドネシア」といったプランを夢見ていたらしい。だから今回のAdam Symsicのプロポーザルは、Arnold Bodeのアイディアが先にあったことに加え、ドクメンタ11と13が遂行してきたコンセプトと相まって、このような形式に成就したのだろう。そのような連続性と進歩性を孕むドクメンタは、確かに素晴らしい。

 ところで、その古き良き民主制とギリシャ時代の象徴ともなっているパルテノン神殿は、前438年に完成し、6世紀に聖母アテナの教会となり、1204年にカトリック教会、その後、1460年からモスクとなった。1687年にベネチア軍の砲撃によって、保管していた火薬が爆発し破壊されるわけだが、興味深いのはその時の主権によって、用途が激変してきた空間であるということである。これを踏まえる限り、民主制の象徴としてイメージを定位させておくのはもったいない気がしないでもない。神殿といえども、当初の目的を越えてさまざまな目的に変容するということが醍醐味である。

 モスクになっていたということからもわかるように、ギリシャは1453年から1829年までの約400年間、オスマン帝国の一部であった。その帝国は最大時、バルカン半島一体と今のハンガリーまで領地の保有していた。それらの歴史的事実が意味するのは、アテネはかつてイスラム圏におけるキリスト教徒が住む地域であったという事実であり、もっと言うと、我々が知るようなヨーロッパの一都市には含み得ないということである。大陸の間に横たわるその国はイデオロギーの面ではヨーロッパでありつつも、実情、生活原理はバルカンと同じように「東欧」に近いだろう。東ローマ帝国の痕跡である正教徒が大多数を占めるということも、それを保障している。

 よって「Learning from Athens」を伴ったアテネとの同時開催は、一見、2010年代における経済危機出発によるヨーロッパ再紐帯のためのプロジェクトのように思われがちだが、実はそのようなバルカン半島の歴史的変遷、地理的環境を改めて認識させる複合的なプロジェクトとなっている。展示会場各所へと移動する際に目に入る景観や、オモノイア駅以北で突如雰囲気が変わる都市構造、いたるところで販売されているフラッペ、バクラヴァというお菓子ひとつとってみても、それらはヨーロッパの文化ではなく、本当のところはオスマン帝国時代の影響である。いざ展示作品に目を向けてみると、ギリシャ人作家に加え、東欧諸国、とりわけバルカン出身者が多いことに気がつく。例えば、各メイン会場に必ず展示されていた絵画作品 —Edi Hilaはアルバニアのアーティストである。キーポイントとしての彼のペインティングの量は、必然的にアーティストとそれが背負う背景に目を向けざるを得なくなる。次に諸会場に注目してみると、メインの美術館以外にもNikos Hadjikyriakos-Ghika Gallery(ギリシャを代表するアーティストの名を冠したギャラリー)やMuseum of Islamic Art(Mounira Al Solhの作品はつまらなかったが)といったように、アテネ独特のコンテクストが読めるような会場が積極的に採用されている。繰り返しになるが、アテネにおけるドクメンタとは、展示、作品だけではなく、移動、滞在をも含めた時間とセットに設計されたディレクションとなっているのだ。であるからに、私はアート領域とそれ以外の領域を、いわゆるドイツからの文化的・経済的贈与というがあったという美談を抜きにしても、個人的な体験を恣意的に編むことのできる余剰があったアテネの方を評価したい。むしろ、ドクメンタ・カッセルとは切り離して考えたい。

 蛇足になるが、とある会場内にいた半野犬(実際のところ、一ヶ月ほど前に迷い込んできたらしい)に同行者が突如噛まれるということがあった。リードが外れていたのだ。ドクメンタスタッフによると、普段はリードで繋がれており、ガードマンが管理しているらしい。本当に申し訳ないとスタッフは言った。噛まれた傷はさほど深くなかったものの、我々は狂犬病の疑いを考慮して病院に駆け込んだ。結果的に言うと、化膿を防ぐための注射のみで済んだ。医者曰く、アテネには狂犬病を持った犬は存在していないらしい。本当かと思いながら、幸いにも軽症だったので宿に戻った。明くる日、展示を逃すのがもったいなかったので再び同会場を訪れたが、相変わらずリードはついていなかった。とりあえず意を決して中に入り展示を観ていると、どうやらここで放し飼いにされているのはその犬だけではないらしい。少なくとも4匹の犬が、敷地内の日陰で寝ていたりしていることが発見された(リードはもちろん付いていない)。よく注意してみると、他にも敷地外に通行人に向かって無差別に吠える野犬がいることに気がついた。

 これは何も運営の非について言いたいわけではない。バルカンの歴史を扱った書籍によると、この土地はかつてオスマン帝国の権力者の気まぐれな暴力に対抗するため、護衛として獰猛な犬を飼っていたらしい。ようするにそれが、農業が主な産業である当時の人々の最低限の抵抗手段だったのだ。その名残とは到底言えないが、今でも野犬が多く存在するアテネは、やはりヨーロッパとは異なった基準で社会ができているとのだと納得せざるを得なかった。話しを戻そう。


 最後に、ミュンスター・スカルプチュア・プロジェクトについて書いておきたい。

 我々鑑賞者はまず、関係各所にて1枚3€のガイドマップを買う必要がある。以後、鑑賞のための支払い義務はない。またこれか、と日本のアート界隈の人なら思ってしまうかもしれない。ほとんどの地域振興と掛け合わさった現地のアートプロジェクトはこのような形式を採用しているという理由で、やはり既視感を感じるからだ。それゆえに当初、全てを順番に鑑賞していく移動プロセスを憂い、少し面倒くさい気持ちになった。というよりも、原理的には全てを掌握しきることができないジレンマの裏返しでもあろうか。ドクメンタの場合は数カ所メイン会場というものがあるので多少作品を逃しても観た気にはなるものの、この手のものは根気よく確認して巡る必要がある。

 しかしながら、面倒ながらもときに歩き、ときにバスに乗り、順々に作品を観て行くと、次第に晴れやかな気持ちになっていく。それはもっと観たいという気持ちではなく、この程度で良いのだなという安堵感に近い。これが何を指すのかは結論として後述する。もちろん作品の中にはつまらないものもあるが、パブリック彫刻という性格ゆえ誰でも観ることができるし、たとえ目的を持っていなくともふとした折りにオブジェに出会ったりしてしまうので、こんなものかとそもそも思う必要もない。また、作品にまったく気がつかない、あるいはアートに関心がない通行人もいるが、それはそれでまったく問題ない。ようするに、本当に公園のようなのである。知覚しても良いし、無視してもいい。とはいえそれではレビューが組みあがらないので、順番に印象的なことを述べていく。

 まず新作で特に印象深かったのはPierre HuygheとJeremy Deller。前者に関して、ひとりだけ規模が違うインスタレーションを展開している。何気に今まで彼の映像作品しか観たことがなかったので、空間を思う存分駆使した作品には圧倒された。かつまた、当日雨が降っていたということも作品に良い具体に作用していた。後者については、おそらくそこに横たわっている膨大な「時間」に感動したのだろう。ミュンスターの郊外にある市民農園の、それぞれの庭にまつわる個人史が、10年に及ぶ日記として綴られている。それがそのまま本棚に陳列されてあって、我々はその第一資料を読むことができる。SPに関することや、天候に関する記事、同時にホームパーティの写真もスクラップされている。そのような文化人類学的なアプローチは、日記越しにそれら主体の美的原理を垣間見させる。他にも、Alexander Piriciのパフォーマンスはいたって真面目に彫刻について考えている。遠隔にある歴史的背景を持つ記念碑を、距離を明示した上で再演しているのだ。Gregor Schneiderの部屋は、それを待つ長蛇の列にも関わらず、このレギュレーションは他の芸術祭ではありえないだろう。Tanaka Koki作品はSPの中でもっとも社会的なポジションにある点が逆に興味深く、室内に何カ所か映像が展示されている。小冊子と加えて、もはや個展並であった。常設コレクションに目を向けてみると、Bruce Naumanの有名な作品は、SP内ではマイナーなのか一人で堪能することができたし、Thomas Schütteの巨大なリンゴを無視して遊んでいる子ども良かった。森の中にあるJenny Holzerのベンチは、近くにある記念碑に紛れてひっそりと佇んでいる。今回だけの近郊都市Marlとの連携プロジェクトである「The Hot Wire」と題されたプログラムもSP本体を理解するための良い補助線となった。Glaskasten Marl sculpture museumには、SPのためのプラン模型(実現、非実現含む)や、Dominique Gonzalez-Foersterの2007年の出品作品が展示されており、美術館周辺の公園には巨大リンゴと相似形のスイカがあったり(Thomas SchütteによるSP没プランの実現)、1997年のReiner Ruthenbeckの作品が坦々と再演されたりしている(誰も観ていないが)。LWL-Museumの前にあるらしき、探そうと思っても見つからないLudger Gerdesの作品も実はここから移動させられたものである。

 このように、彫刻際における作品一つ一つを鑑賞しつつも、私はSP全体に漂う「健やかさ」について考えざるを得なかった。もし屋内にこのような作品が陳列されてあれば、印象は変わっていただろうし、逆にドクメンタの作品群がこの形式に乗っ取って展示されていたら、どうなっていたであろう。

 その言葉にし難い感覚を理解するためのヒントは、On Kawaraの「Pure Consciousness」の展覧会インストラクションの中にあった。長くなるが引用してみる。


展覧会のためのインストラクション

1. 7枚の絵画は(JAN. 1,1997(A), JAN. 2, 1997(B) JAN. 3, 1997(A) JAN. 4, 1997(B) JAN. 5, 1997(B) JAN. 6, 1997(A) JAN. 7, 1997(B)) 幼稚園の教室に展示される。それら絵画は、子どもたちが触れることを避けるために高めに設置される。絵画は、展示ケースの中に入れるべきではない。

2. 4歳から6歳の子どものみ、この展示を観ることができるだろう。むしろ、この展覧会の中で生活することができるだろう。先生は、たとえ子どもに尋ねられたとしても、それら絵画の説明をしてはらないし、返答さえしてはならない。

3. 本展覧会は、子どもたちがいない週末か、特別な日のみ一般公開される。

4. 本展覧会は、1日からおおよそ2ヶ月間に渡って開催される。

5. 誰も子どもたちに対し、絵画の感想を聞いてはならない。展覧会の目的は至ってシンプルであり、それは子どもたちが自然な状態で絵画に対峙するのを許容することである。それ以上はない。何人かの子どもの記憶にはこの体験が残り、中には残らないものもいるだろう。教育とは一般的には社会的な目標を持つが、本展覧会は教育的なものではない。

6. 本展覧会の告知、プレスリリースの発行はしてはならない。

(筆者訳)


 この態度性は、少なくともSP全体のキュラトリアルに通底していることがわかる。鑑賞を強要するわけでもなく、かといってアートに触れる機会を剥奪するわけでもない。SPディレクターのKasper KönigはART iTのインタビュー内で、美術史家Camillo Sitteの「雪だるまこそ理想的な公共彫刻である」という言葉を枕に、「認識し、そして、消えていく。この時間の感覚が、作品に最も重要な要素です。Marcel Duchampのようなアーティストが興味深いのはそういうところですね。要するに、時間なのです。(略)何をするかより、何をしないかの方が重要です」と語っている。
 つまり、ミュンスターにはドクメンタ・カッセルとは極端に対称的な規模と、形式と、思想性、何よりも分をわきまえたアートの可能性と非可能性の線引きがあった。アートに可能な範囲を拡大解釈しないこと。アートが可能な領域内で、アートに託された仕事を行えば良いのだ。同時に、アートに可能な範囲はとても限られていることを自覚する。先ほど述べた安堵感とは、これへの再認識である。たとえそれが結局のところモダニスティックな思想と類似していようと、現状の社会風潮の中においてその手法はある意味健全かつ有効であるように思われた。何が積極的に為されていないのか。どの線が越えられないのか。いかなる線をあえて越えていないのか。何を強要せず、何を贈与しているのか。我々は目の端に映った異物を認識し、知覚し、記憶する。認識しなくとも記憶に留まる場合だってある。体験が残る者がいて、残らない者だっている。強要されずともそれを話す必要なんて特にない。すべてが教育的なものとは限らない。10年が経つ。大人になってそれがアート作品だったと知る。青年期には受け入れ難かった作品の新たな受容方法を知る。安堵さえする人間がいる。世界が少しだけひろがったように見えて、現実的には狭くなっていく中で生を選択する。やがてまた10年が経過する。
 ミュンスターでの数日間は、カッセル、あるいはアテネとも違った独特の思考をもたらしたのだった。

August 10th – 19th, 2017

In Munster and Kassel, Germany

August 7th, 2017

In Poznan, Poland

 本格的なサマーシーズンになり、2016年の10月から始まったポズナンでのレジデンス生活がようやく終わりを告げた。所属先のポズナン芸術大学でのプログラム、主に国外留学生に向けたレクチャーの聴講が自由に受けられるというものから得られたものも大きかったが、何よりもヨーロッパ大陸の中央に位置にするこのポーランドから、西ヨーロッパ、かつて共産主義圏であった中欧・東欧諸国、そして、日本にいる際には考えたこともなかったバルカンを含む、奇妙な自意識のもとに発展してきたヨーロッパ(=キリスト教世界)を考察しながら生活することは大変有意義であった。さらに、幸か不幸か、2016年にはイギリスのEU離脱が決定し、西ヨーロッパの諸都市ではテロが勃発、そんな中、大西洋の向こう側では波紋を呼ぶ新たな大統領が誕生した。イタリアやハンガリーでは国民投票が実施され、前者は若き首相が辞任し、後者に関しては移民受け入れ反対に対する票が大多数ながらも投票率が過半数に及ばず不成立で終了した。フランスにおいても大統領選があり、その度にEUの危機が叫ばれた。ここポーランドでは与党である「法と正義(PiS)」が順調に国家主権を押し進め、同じように、アジアの極東に位置する島国でも「組織的な犯罪の共謀罪」が成立した。そのような時勢の中でヨーロッパにいられたことも、一人の市民として意味があったように思われる。


 しかしながら、自らの活動としてこの一年間を振り返ってみると、差し当たって何もしていない。当初目標ですら抱いていなかった。前職中にたまたまこのような機会を得て、所属もしていない団体の枠を借り、金銭的にもかなり無理をして渡欧することに迷いはなかったものの、このレジデンスきっかけに何か職業的将来に繋がる鉱脈を得ようと旺盛に営業することはできなかった。それはアートシーンのヴォリュームの問題ではなく、たとえそれが西ヨーロッパの一都市であったとしても、SNSによってさらに加速度をあげた現代アート活動への欲望作用に加担することはできなかっただろう。

 むしろ、何かかつて自分がいた場所から逃れられる安堵感の方が大きかったかもしれない。それは決して現代日本における社会的閉塞性と近似ではないとは言い切れないが、左派が言う国民の保守化が事実だったとして(諸説あるが、してないという研究の方が論理的である)、さらに政府が批判されるような国家主権を強めていたとしても、私の嫌悪感はナショナリズムではく、浅はかで移り変わり易く、政治的イシューを瞬く間に忘却する日本リベラルに向かっていることを正直に告白しよう。なぜなら、ナショナリズムは、近代化とともに民族単位の国家概念が誕生したという意味において、我々がいま立つ地平と地続きのイデオロギーであり、過度なナショナリズム化が俗に言うグローバリズムの趨勢と反比例的に増大するのは理解できる。しかしながら、むしろ基本理念を持たず、条件反射的に「保守」「権力」「反民主主義気配」にアンチである日本リベラルの、それこそ社会的先進国を頂点にした超無自覚な西ヨーロッパ・アメリカ信仰には、理解が及ばなかった。むしろ批判したい気持ちを通り越して、無視したい気持ちさえ生まれた。

 とはいえ、なにもそこまで嫌う必要はなかろうと自分でも思う。個人的に、保守陣営が叫ぶような日本特殊性に同意もできないし、リベラルが声高らかに叫ぶ内容に同意する部分もないわけではない。ただ、一体なにがここまで彼らに伴う「偽善性」に反感を抱いてしまうのか。いや、よく考えてみれば「偽善」であることはまったく構わないではないか。現実的ではなくとも崇高な目標を、何の責任もないところから主張したってまったく問題ないはずだ。

 ではなぜか。

 それはおそらく、自らの形式の前提を疑わず、反省もせず、ステレオタイプ的に西洋の猿真似をし、繰り返し、西洋への憧れとともに、それを普遍的な真理として信じきっている態度に、私は何かを感じ取っている。それはつまり、私はそこに日本のアートシステム自体を重ねてしまっているのだ。それらも同じように、無自覚な地平において、さらにSNSの極地性と相まって、ただ欲望を生産する付随的なものでしかなくなっている。


 このように、アートを断念するか、システムを欲望し続けるか、保守化するか、リベラル化するか(ノンポリ化するか)という状況から離陸できたことに安心した。しかし二つ目に、そのように考え出すと、ますますアートを断念して、非政治化して、動物化するしか道がないように思われた。逃亡し安堵し、その後待ち受けているのは結局のところ、極端な個人主義化でしかなかった。あるいは、他の道があるのだろうか。

 もしかすると、アートシステム内でのアート諸活動をじめてもおらず、むやみに教育機関でそれを再生産もせず、それでも断念しない方法を少数のアーティストは実践しているかもしれない。アーティストにはそれが可能かもしれない。しかし、キュレーターはシステムを稼働する役目以外で、何が可能なのだろうかと考える。我々はシステムの外部にいたアーティストを、その中に放り込む以外で何ができるのだろうか。いまのところ、悲しいかな、アートを「公共」に置くということが想像できない。そうなると最初からキュレーションなど達成できるわけがない。展覧会などもっての他である。ただ唯一、アーティストへの愛を高めていくことによって、それが昇華し、やがて大文字の「公共」に微かになり得るかもしれないが。

July 26th – 31st, 2017

In Prague, Czechia

July 17th – 20th, 2017

In Amsterdam and Utrecht, Netherlands

July 7th, 2017

In Poznan, Poland


 ドクメンタ14への批判記事を読む(http://www.sleek-mag.com/2017/07/03/documenta-14-kassel/)。まだカッセルを観ていないのでなんとも言えないが、少なくともアテネにおいて、確かにキュラトリアルコンセプトは会場において明示されていなかった。彼女が揶揄する通り、「“oh yes, lets have five curators! And 199 artists!! And 70 venues in two cities! And an “encounter point” for lunch with Athenian normies! And a radio station! And a Parthenon made of books wrapped in cling film!”」といった掛け声のみに集約されるような展覧会であることは完全に否定できない。また、Daybook内(3種類のブックレットが用意されている。1つは会場マップ。3つ目は「Reader」というテキストのみによる書籍。2つ目がこれにあたる。)においてもそういったテキストはなく、アーティストの略歴さえなかった。日付をノンブルに変え、各アーティストに印象深い年月を聞き出し、それに基づいて順序を設定している編集方針は悪くはないと思ったが、それによって抜け落ちているアーティストがいることは、おそらく熱心な鑑賞者でも気付かないだろう。単純にアーティストが生きていなければ、聞けないではないか。

 たとえば、メイン会場の一つであるNATIONAL MUSEUM OF CONTEMPORARY ARTに展示されていたForough Farrokhzad(1935-67)および、その作品「The House is Black」はDaybookから抜け落ちている。たまたま素晴らしい作品だと思ったので気付がついたのだが、もし僕が興味もなく名前も記憶していない場合、わからなかっただろう。そしてそこから、他にも紙にインクで定着されていないアーティストがいるだろうことが想像できる。少なくとも僕は、略歴が記載されていないことに異を唱えるほど展覧会原理主義ではないが、この網羅性の欠如には思わないところがなくはない。「それもまた原理主義的である」とより展覧会左派が言うのなら、しょうがないけれども。
 記事の著者であるJeni Fultonは、簡単に言ってしまうならば、本ドクメンタ14においては、各作品が集合化してキュラトリアル戦術の下敷きになっていると言う。そして、彼らキュレーターの政治的・民族的な要請がアート作品自体の主張に重なってしまった場合、アート作品は損なわれる、と続ける。彼女が、ドクメンタ14をヨーロッパ・ユニオン再紐帯のためのプロジェクトだとを見なしているかどうかは定かではないが。
 ようするに、Jeni Fultonは本展における、それぞれの作品の自律性、(手書き風の)キャプションの説明不足やキュラトリアルコンセプトの不明示、および「learning is unlearning」や「Athens could be anywhere」といった撞着語法による煙に巻くようなキュラトリアルを批判しているのである。おそらく彼女はマリア・リンドも嫌いなのだろうなと頭をよぎるが、この論争構図は馴染みがある。あくまで展覧会は博物学的見地からの作品を共有するための側(ガワ)なのか、あるいは独立した形式か。キュレーション右派とキュラトリアル左派によって意見がわかれるだろう。

 このようにざっと読んでみると著者は典型的な作品至上主義者かと思われるが、そうでもない。ただ中身のある前衛的な展覧会とそれ以外を差別化しているだけであり、「新語の創造はアイディアを生み出すことと同じではなく、その代わりとしての、(€37.5万もかけた)難読/曖昧で空っぽな試作」自体を問題視している。事実、日本国内においてもこのようなキュラトリアル潮流は存在しているので、フレーズごとに追っていくと同意できる部分も多々ある。その意味で彼女のテキストは有用である。

 

 さて、もし僕が強力なインスティチューションが未来永劫存在している(ような)大陸で生を受け、大文字の公共概念を体得していたなら、ここで終われただろう。彼女の批判はそもそもそのグラウンド上において意味を成す。しかしながら、ただ単純に、色々批判的に書いた上でもやはり賞賛したいポイントは、ドイツのひとつの都市にある市民の税金によって賄われている組織が、政治的にはEU圏からの切り離しの主導もあり得たようなレベルにも関わらず、アテネとの同時開催を企画として採用し、それを実行したということである。訪れずとも外枠から想像できるように、ドイツによる期限付きの援助の裏側で、カッセルの経済資本と文化資本がギリシヤに無償で提供されているのだ。展覧会の内容と並行してそういったものにすぐに感動してしまう僕はやはり、「Come back, Carolyn Christov-Bakargiev, you and your talking strawberries are much missed.」のように締めくくれず、そしてふと気がつくと、すぐに感傷的西洋文化賞賛者に陥っているのである。

June 26th – July 3rd, 2017

In Athens, Greece

June 9th – 13rd, 2017

In Budapest, Hungary

June 2bd – 4th, 2017

In Wroclaw, Poland

April 28th – 30th, 2017

In Berlin, Germany

April 8th – 15th, 2017

In Porto and Lisbon, Portugal

April 1st, 2017

Some graphical photos that most of them was photographed by Kai Maetani were added.

February 8th, 2017

Here was launched.

February 2nd – 5th, 2017

In Gdansk, Poland

December 6th – 10th, 2016

In Paris, France

October, 2016 – September 2017

In Poznan, Poland, in order to take part in a residency program of University of Art in Poznan

September 15th – 20th, 2016

In Seoul and Gwangju, Korea

June 19th – 25th, 2016

In HongKong and Macau

April 24th – June 18th, 2016

In Cebu, Philippines

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